論より行動

結局、人間を観察するときは、その人のやっている事に目を向けるべきだ。言っていることではなくて。俺はある経験からこれを嫌というほど思い知らされた。未だに思い出してもムカムカする。友人だと思っていたやつは、哲学の教員だったけど、教会の書記をやってて、優しくて真面目なやつだと最初は思っていた。しかし、一年経って、こいつはいきなり俺を非難してきた。ずっと思っていたけど言えなかったと前置きし、手当たり次第非難の口調を浴びせた。俺は流石に驚いた。前触れもあったもんじゃない。そしてこいつの卑怯なところは、具体例を一才示さないところだ。一つ具体例を挙げたが、感情によって記憶が歪められており、全く以って客観性がなかった。

変なやつだと感じた事は前々からあったが、流石に嘘つきの偽善者とは思わなかった。心底見損なったと思った。俺も最初はこいつの不幸な生い立ちに同情しようかと思った。アメリカ南部の宗教原理主義の家で育ったからこうなったのかと。だが、こいつは40歳を過ぎている。あまりにも幼くて感情的だと思った。

こいつのいう理想論ではなく、こいつの行動に焦点を移したら、実態が徐々に浮かび上がってきた。こいつは、30過ぎてアメリカで博士号を取得するが、講師という高学歴ワープアの職しか見つけられなかった。そんなとき、東南アジアの大学で助教授を探していると見て、応募したのだろう。はっきりいってこいつは、怒り出すと全く理性などない。とても論理で飯を食っている人間とは思えなかった。アメリカでも三流、せいぜい二流の学者だったのだろう。

ただ世渡りはうまいと思った。日本語も話せないくせに日本哲学を部分的専門とし、日本語堪能な欧米人や日本人と共同研究をやったりしている。それに、民主化デモ鎮圧の後、その国の公立大学に教員としてやってきて、教えている。今は准教授だ。何千万ももらっているのは羨ましいと思った。

こいつはいわば、未だに生まれ育った宗教の奴隷だった。こいつの善意も、宗教から来ている義務といった感情が強く、心の底から他人を助けたいというものではなかった。その証拠に、こいつは責任感が全くなかった。そして、かなり自慢や他人にどう見られるか気にしているようだった。貧乏な子供を一時的に養子にした事を自慢していた。まるで俺は偉いと言った感じにだ。説明責任も果たせないやつが、こういったことを持ち出す事で、自画自賛しようという事だろう。

俺があるものをそいつに渡した事があったが、多分あの紙は捨てたんだろうな。薄情なやつだから。自分の育った宗教を嫌悪するくせに、批評などをしっかり受け止める知性は持っていなかったみたいだ。感情論でしかものを言えない。そしてこいつは、自分は延々と話したい事を話すくせに、相手には遠慮しろと言ってくる。何様のつもりだ。大体、お前は俺を最初から同等だとは見做してなかったんだろう。己が嫌う宗教の義務だから、仕方なく俺みたいな異教徒の無神論者と話していたんじゃないか。友達のふりをしてな。そして評価や些細なことへの怒りを溜め込んで爆発し、いきなり俺にぶちまけたということだろう。

こいつを見て、学歴や肩書きなんて所詮お飾りに過ぎないと思ったな。立派な綺麗事を言うやつは、極めて視野が狭くて世間知らずで、責任も取ったりしない。結局こいつは、現実逃避のために哲学の道に進んだんだろう。そして、打算的に独裁国の大学で美味しい仕事にありつけ、それで飯を食っているという。

本当に偽善だよ。教会でパレスチナ反対とかトランプ反対とか、散々政治活動をしているくせに、独裁国政府の締め付けとか、政治犯の処遇については全く言及しないんだからな。結局安全圏からしか物事を言えない臆病者だと思う。俺が自分の過去を言うと、急に顔色変えて逃げていくしな。世の中の苦難とか困難から縁遠い象牙の塔の住人なんだ。全く現実や現状を知らない。そんなやつに、友達はいなそうだった。今考えると悲壮感が漂っていたな。

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