海外の大学にいるけど、友人になった哲学の教員が、実はアメリカ南部のキリスト教原理主義の家で育った人だった。最初は優しい人だったけど、一年していきなりこっちを非難してきて。理由を聞いても具体的に教えてくれなくて、「なんなんだ、こいつ」って思った。最初から友人でも無かったのかよって怒りが湧いてきた。あいつの振る舞いは全部表層的さ。それと、いまだに生まれ育った宗教の奴隷なんだと思った。自分で改善しようとしてるのかわからないけど、思考も行動も宗教に支配されてる。友人じゃないって分かった時は、嘘つきで偽善者だって思った。でも考えてみれば、こいつにとっては、宗教の教えは義務みたいなもんだから、それを守るのがいい信者の役目みたいな側面はあったのかもな。今は進歩派とか自称しているけど、思考の硬さは原理主義の時代に培われたものだ。生まれた時からリベラルとは全然違う。貧乏な子供を一時的に養子にしたって自慢してたけど、結局それはそいつにとって、慈愛という義務を果たしただけで、心からの行いでは無かったと思うんだよな。俺に対していきなり非難してきて、何も具体例や証拠を上げずにずらかるやつに誠実さなんてあるものか。こいつは親しい友人も居なそうで、どことなく悲壮感やぎこちなさが漂っていた。「この教会は平等主義」って自分で言っておきながら、俺をずっと下に見ていたには本当に最低最悪だと思う。人間性を疑うよ。その前から、なんか偉そうなやつだという違和感はあった。言動が威圧的になったりするからな。でもここまで碌でもない人間とは俺も思わなかった。見損なったというのもおかしい。俺は大してこいつに期待なんてしていない。でも憤りは感じる。表面では紳士や善人を装っておいて、裏では俺を見下し、決めつけていたなんて。こいつ、勝手に怒り出したあとは、本当に子供みたいだった。頑固で感情的で、全く客観性が無かった。論理で飯を食ってる人間だなんて到底思えない。学者としても多分微妙じゃないか。所詮、アメリカで仕事がなくてアジアに来たやつだからな。アメリカでは三流か二流の扱いだろう。