洗脳と今

哲学の学者とその友人たちに会ったとき、私は驚いた。彼らはほとんどが未婚の30代から40代の男性だった。彼らの社交界はとても狭いように思えた。このような狭い社交界でどうやって生きていけるのだろうと不思議に思った。彼らはまた、結婚、子供、仕事の安定といった、一般的に連想される人生の節目を迎えていないようにも見えた。彼らが広い世界の社会力学を理解していないように見えたのも無理はない。

前にも言ったように、この学者は洗脳されていた。そして彼はまだ洗脳に苦しんでいるようだった。彼は脱洗脳されていないのだ。最も腹立たしかったのは、彼の傲慢さである。彼が洗脳されていることには同情もしたが、だからといって彼の無責任さと傲慢さには耐えられなかった。彼は私に向かってではなく、私を見下して話した。そして彼の言葉のほとんどは、理性ではなく扇動だった。アジア文化への理解が欠けているのに、自分の信念を独断で押し通すのは腹立たしかった。東南アジアに9年間住みながら、彼は広東語、福建語、北京語、日本語、韓国語など、アジアの言語を一切勉強していない。その上、日本哲学も専門だと言っていた。彼の主な専門はドイツ観念論だが、京都学派も研究しているという。なぜ彼が日本語を一言も話さずにこんなことができたのか、私にはわからない。彼はアジアの文化がどのようなものかを深く理解していないようだった。彼はアジアでは常にゲストであり、ゲストは現地の人とは違う。彼自身、アジアの文化についてまったく知識がないのに、私の問題を非難するのを聞いて、いらいらした。

残念なことに、この視野の狭さは幼少期に洗脳された名残のようだった。彼はアメリカ南部の原理主義カルトで激しく洗脳されたため、多様な意見を受け入れやすいように脳の構造を再構築することができなかったのだ。彼は表面的にはリベラルや進歩主義者のように見せようとするが、心の底ではまだ部外者を疑い、カルトを誇りに思い、洗脳に苦しんでいる人間だった。彼は歓迎すべき人間ではなかった。彼を信用したのは間違いだったと思っている。洗脳されていたからではなく、彼には決定的に自己認識が欠けており、ユーモアや多様な視点を理解するには近視眼的すぎるからだ。彼の考え方はいまだに非常に硬直的だ。そして彼には、私が他の人に望むような認知の柔軟性や創造性が育っていない。

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